「ストーリーが良いアニメやゲームが大好き!」
私はよくこんなことをいっていました。
だけど最近気づいた。
まったくストーリーの本質を理解できてないわ。
キャラクターの魅力や感動的なBGMに感動させられているだけだった。
人はストーリーに感動しているわけではない
昔『シュタインズ・ゲート』っていうゲームで大泣きしたことがありました。
大好きな作品だったのでネットで情報を集めていたらこんな書き込みを発見。
「シュタインズ・ゲートはただのキャラゲー。そこらへんの美少女ゲームと変わらん」
これを見てものすごいムカつきました。
「は? シュタゲはそこらの萌えゲーとはちげーから。ストーリーが良いから売れてるんだよ」心の中で反論した。
でも今考えてみると、「シュタゲはキャラゲー」って意見を否定できないわ。
もしヒロインたちが美少女ではなく顔面ボコボコのブサイク女だったら、はたして感動できただろうか……
『君の名は』や『時をかける少女』がブサイクなカップルの話だった場合、あんなに大ヒットしただろうか……



するわけねえだろ。
このことがよくわかる事件が「惡の華アニメ化事件」である。
簡単にいえば、『惡の華』という人気漫画をアニメ化する際、白人モデルのアニメ絵でなく日本人の顔にして放送したらアニメファンがブチ切れた事件です。
女キャラをちょっとでもブサイクすると怒る人たちがいるということがよくわかる。
視聴者が感動するのではない。制作者が感動へと誘導しているのだ
「惡の華事件」からもわかるが、視聴者は作品のストーリーなんて見ていない。
というか、「ストーリーや設定を受け、自分の頭で思考して感動する」ということができていない。
じゃあ何で感動してんの? というのは制作者に思考を誘導されているだけなのだ。
制作者「こんなことが起きたから主人公が泣いちゃいました。だからあなたもここで泣いてください!」(声優の迫真演技ドカーン!)
制作者「ここがこの作品の名シーンです! 感動してください」(感動的なBGMドカーン!)
制作者「オタクは女の子を出しとけば満足するんだろ?」(かわいい女の子ドカーン!)
こういう制作者の意図が透けて見えると萎えてこない?
「感動的なBGMで泣かされる」の意味
偉そうなことをいってるが、私も制作者に誘導されて泣くタイプである。
自分は今までどんな場面で感動しただろう? と考えてみると、「ストーリーで感動した」と胸を張って答えられないことに気がついた。
私の場合、キャラが泣くと私も泣く。
登場人物が困難を乗り越えて夢を叶える。そしておもわず涙が……→私も泣く
運命の2人がいろいろありながら最後には結ばれ涙……→私も泣く



これ、もらい泣きしてるだけじゃね?
ストーリーなんて関係ないじゃん。
キャラが泣いたの見て感動してるだけじゃん。
もっといえば、私はBGMでも泣く。
さっき書いた『シュタインズ・ゲート』は感動的な場面で感動的なBGMが流れて泣いた。
『君の名は』や『時をかける少女』でもここぞという場面では感動的な曲が流れる。
これって感動する場面を制作スタッフに誘導されてるだけじゃんか!
ストーリーを自分の中で咀嚼できていないため、制作者の「ここが泣き所ですよ(ニヤニヤ)」という甘い罠にまんまとハマっていた。
彼らの手のひらの上で踊らされていただけである。



なんだよこれ、めちゃくちゃムカつくじゃねーか。
そんでものすごく恥ずかしい。
世の中の99%は感想なんてもっていない
ここまで読んで、「俺はちゃんと自分の頭で感動できてるし」などと思っているそこのお前。
甘い、甘すぎるぞ。
絶対できてないから。
- アニメやゲームをやり終えた後、「(作品名)+ 感想」で検索することがある
- 学生のころ、読書感想文を書くのに時間がかかった
- 作品のおもしろさを語る際、「ヤバイ」「すごい」などの言葉を多用する
これらに当てはまったヤツ、貴様はこちら側の人間だ。
制作者に踊らされている側の人間だ。
現実を受け入れられないのなら、試しに好きな作品の感想を文字にして書いてみろ。
全然できねえだろ。
本当に好きで感動した作品なら無限に感想が溢れてくるはずである。
しかし感想が書けないというのは、自分が作品おもしろさを理解していないということだ。
それってめちゃくちゃ悔しいよな。
私もブログを書いているが、好きな作品こそうまく書けない。
よって下書きのままで公開できない。
大好きな作品なのに良さを語れないってものすごく悔しい。
ならばできるようにトレーニングするしかない。
『「言葉にできる」は武器になる。』という本には以下のようにある。
頭で考えていることを書いてみたり、口に出してみようとすると、言葉に詰まったり、思うように表現できないことが多い。
頭では十分に理解できており、今すぐにでも言葉にできると思っていたのにもかかわらず、である。
(中略)
言葉にできないということは「言葉にできるほどには、考えられていない」ということと同じである。
どんなに熟考できていると思っていても、言葉にできなければ相手には何も伝わらないのだ。
〈言葉にできないということは「言葉にできるほどには、考えられていない」ということと同じである。〉
そういうことか。
私は思考停止していたということだったのか。
ならば考えるようにしよう。
おもしろかったと思ったならば、「なぜおもしろかったのか?」と考える。
感動したシーンがあれば、「なぜ自分はここで感動したのだ?」考えてみる。
作品への愛を育む練習をしよう。
ということで、ここまで読んでくれたあなたに問う。
このブログを読んでどう思ったのか?
下にあるコメント欄に300字前後で答えよ。
追記
バラエティ番組で「笑い声」が挿入されていたり、芸能人がワイプで大げさな驚きの表情を作っているのをよく見かける。
ああいうのは「ここが笑いどころですよ」「ここでビックリしてください」というのが伝わってきて、じつに寒いと思っていた。
しかし制作者に操られている私は、そんな寒い連中以下の存在だったのだ。
私は「言葉に出来るは武器になる」を読んだ訳ではありませんが、紹介して下さった文章を見る限り読み取り方が間違っていませんか。
著者の伝えたかった部分は「言葉にできなければ相手には何も伝わらないのだ。」です。
「言葉に出来ないという事は言葉にできるほどには、考えられていないということと同じ」これは「考えられていないのだ」ではなく同じに取られるよ、と言っているのです。
だから言葉にして伝える能力を付けよう、そういう本ではないかと思います。
>私は思考停止していたということだったのか。
早計ではないでしょうか。松浦様には松浦様の感想があるのであって、アウトプットの問題です。
感情を言語化出来ないストレスを解決するには、感想を頭で考えるよりも本や新聞を読んで意識的に語彙の引き出しを増やすとか、思考を言語で整理するとか、そういう事ではありませんか。
マウント取ってるみたいなコメントですみません。
絵が上手い人もいきなり何も見ずに頭で考えて上手い絵を描ける訳ではなく、模写とかデッサンをして上手くなっています。
作文も同じである、という事を伝えたかったのです。
テツオさんコメントありがとうございます。
私がブログをはじめたときの目標として「おもしろい感想を書く人だと思われたい」というものがありました。
それなのにいざやってみると、楽しめた作品のことを文章にして書けないしおもしろくも書けないしでムカムカして書き散らした結果がこの記事です。
昨日ふと思ったテンション書き散らしたため、
・「深い感想が書けない」
・「浅いところばかり見て制作者の思いどおりにされている」
・「思いを言葉にできない」
という、いろんなイライラがゴチャゴチャになっており
『俺は制作者に誘導されて感動してるだけだった。その証拠に薄っぺらい感想しか書けない』などというわけのわからんタイトルになってしまっています。
冷静になって読んでみるととても恥ずかしい。
『言葉に出来るは武器になる』に関しては、引用した以外の部分で「言葉にできていないということは思考できていないのと同じである」というような主張があったのでそっちに気を取られて暴走してしまいした。
ひとつわからなかったのですが、「アウトプットの問題」というのは、「思考を文章に変換する能力が足りていない」ってことで合ってますか?
おもしろい感想を書けるようになりたいので教えていただきたいです。
所謂世界観などを重要視するタイプなのではないでしょうか?
アニメ・実写作品を手掛けている監督の押井守は先に世界観を構築して
次にキャラクター、最後にストーリーに取り組むそうです
一般的な手法だとこの逆になるので、押井守は正攻法ではないということです
そのような事情もあり押井守の作品が一般受けすることはないのですが
熱心な固定ファンがおり、カルト的な根強い人気があります
ですのであまり難しいことは考えずに素直に自分の感性に従えばいいと思います
音楽なんて大半の人は音楽理論を知りませんが
素晴らしいと感じた曲に感銘を覚える人がごまんといますから
成田山さんコメントありがとうございます。
もしかしたら私は物語の世界に没入しまくっているのかもしれません。
だから音楽に魅せられて感動したり、シナリオの細部に目が行き届く余裕がなかったりしてるのかも。
こういうのを世界観を重要視してるってことなのでしょうか?
押井守さんのWikipediaに「映画の半分は音である」とありましたけどわかる。
大学生のときに『ペルソナ4』っていうアニメを観たのですが、「Never More」という曲にウルウルきました。自分の高校時代を思い出してしまったのです。
Never More(https://www.youtube.com/watch?v=SXYdgfXyYqs)
ホント音楽の力って強烈だと思います。
ただ、世界観要素が強すぎると理解が追いつかなくてイマイチ楽しめないんですよね。
ゲームだと『ワンダと巨像』のような雰囲気ゲーと呼ばれるもの
映画だと『リリイ・シュシュのすべて』『青い春』のような青春作品は何も響いてきません。
そういうのって、キャラクターの心情や物語の雰囲気を深く考えることができていないから楽しめないのだと思っていおり、「俺はバカだから作品を楽しめず人生損してる」と落ち込んでいました。
でも「こういうのは自分に合っていないだけ。自分がおもしろいと思うものを楽しめばいい」って割り切っちゃえばいいような気がしてきました。
娯楽でコンプレックス感じるっていうのもワケわかんないですからね。
初めてコメントさせていただきます!
「このブログを読んでどう思ったのか?
下にあるコメント欄に300字前後で答えよ。」
にやられました。これはずるいです。笑
個人的には、ユーザーの感情を気持ちよく誘導してくれる作品というのは、そのこと自体がその作品の価値の1つであると思います。
マンガなどでも視線誘導や構図、コマ割りが練られた作品は、王道の平凡な内容であっても心揺さぶられたりして「おもしろかったな~。」という気持ちの良い読後感が得られるので。
(もちろん、後味の悪すぎるトラウマ作品として悪い意味で心に残る作品などでも、そう思わせることのできた制作側の力量には敬意を覚えますし。)
〈言葉にできないということは「言葉にできるほどには、考えられていない」ということと同じである。〉、これはショックを受けました…。
頭の中はその事でいっぱいなのに、溢れそうで苦しいし窒息しそうなのに、言葉としてなかなかアウトプットできない(もしくはとてつもなく時間とエネルギーがいる)ということは…
まだまだ考えることが足りないというのか…!!と…
とりあえず、書籍『「言葉にできる」は武器になる。』が気になったので最寄りの図書館で予約しました。
(買うんじゃないんかい!と思われるかもしれないですが、借りて読んで相性が良かったら買って手元に置く慎重タイプです)
それと、コメント欄を拝見しまして、自分もアニメ『ペルソナ4』が大好きだったので嬉しかったです…!曲がほんと良い!!
音楽だって編曲やエンジニアのMIX作業のさじ加減で曲の感触はとても変わりますし、作り手の「伝えたい!!」の精神が受け取り手の我々に伝わるからこそ、本来の内容のカロリー以上にグッとくるんだろうなぁ…。と思います。
乱文にて失礼いたしました。
わかるなあ。
私はすばらしいゲーム、映画、漫画の最終話を読み終えた後にすべてが終わってしまった虚無感、感動で胸がいっぱいになります。
にもかかわらず、その感想を人に伝えられないんですよね。
で、何をするかといえばamazonで検索して他人のレビューを読んで、他人に代弁してもらったので満足する……。
最近はその行為がカッコ悪いし、「……俺は何やってんだ?」とむなしくなります。
「俺はあの作品が好きなんじゃないのか? 感動したんじゃなかったのか?」とすら思っちゃう。
ネット見てると「俺の言いたいことを代弁してくれた!」と思える人がいますけど、あの人らってほんとバケモンですよ。
『ペルソナ4』といえば、最後にみんなと分かれるシーンで曲『Never More』が強烈でした。
あんなに歌詞が心に入ってきた場面なんてめったにないです。
〈このまま電車のれば 二度と会えない気がして〉って歌詞ありますけど、そうなんだよなぁ、大人になったら電車で行ける距離なんてすぐ会えると思っちゃうけど高校生にとっては遠い距離なんだよなぁ。
作詞の人は若者の心情をアウトプットしててすごいですよね。
それこそとてつもない量を考えてきたからできるのかも。