最近知ってビックリしたんだけど「文章を書くのが好き」なんていう人がいるらしい。

私もブログをやっているので、うまく書けたときはうれしく感じることもある。

だが、文章を書くこと事態はとてもめんどくさい。

「頭の中のことがそのまま表現される装置ほしいな〜」と思いつつ、めんどくさいながらブログを書いている状態です。

だがしかし、そんな行為に快楽を感じるド変態が存在するらしいのだ。

 

そいつらは暇さえあれば文字を書く。

パソコンやスマホのメモ帳にひたすら文章を書き込んだり、原稿用紙を広げてひたすら書きまくる。

書いたものを出版社に持ち込んだり、ネットに公開したりして褒めてもらいたいわけでもない。

おまえらは地縛霊か何かか?

生前に何か書き記しておきたかったことがあるから、幽霊になった現在も未練がましく作文やってんのか?

 

幽霊っていうのは冗談だが、私から見れば文字を書くことに快感を覚えるというのは怪奇現象と大差ない。

ということで、「文章を書くことが好き」という怪奇現象について考えてみよう。

宮部みゆき「小説を書くのはとても楽しいこと」←実際にやってみた

昔、小説家の宮部みゆきさんが何かの賞の選考委員を務めていたときに次のようなことをいっていた。

小説を書くことというのは、とても楽しいことなんです。
その楽しみを知っているみなさんがワクワクしながら書いた作品を読めることを楽しみにしています。

私はこれを読んで「ケッ、そんなことを思うのはおまえだけじゃ」と思った。

だって宮部みゆきって、プロット(小説を書くときのメモ)を作らずにバンバン書いちゃうバケモノなんだもん!

「そんな小説の神様に愛された人間なら、さぞかし書くことが楽しいだろうね」と卑屈に考えていた。

 

でも実際にやってみたらけっこうおもしろかったわ。

私の場合は小説っていうより「自分史」だったんだけど、それでも楽しかった。
(書いたやつ:底辺高校の日常 偏差値32の高校に通ってました)

頭の中のことを書いてみると、そこからおもしろいアイデアが発展する。これが気持ちいい

心理学者ネルソン・コーワンの行った実験によれば、人は短期記憶を3〜5個のことしか保持しておけないという。

買い物を頼まれた際、3個ぐらいなら覚えておけるけど、10個とかだと忘れてしまうアレである。

これは逆にいえば、メモさえとれば脳のメモリーを節約できるということだ。

 

で、私の実感では思考を書き出して脳のメモリーに余裕をもたせると、アイデアが出やすくなる。

たとえば、この前『「ニコニコ動画はオワコン」←これに反論します』という記事を書いた。

これは当初、「ニコニコ動画は陰キャの心の拠り所だから、陰キャがいなくならない限り衰退はない」という主張で書き始めた。

 

だけど書いているうちにつぎつぎアイデアが溢れ出し、

「犯罪者を世に解き放たないための隔離施設として活用すべきだ」
とか
「ニコニコ動画は現代の蠱毒こどく(呪術の一種)だ」

など、ワケのわからん理論が出てきて自分でも笑えた。

 

このことから「文章を書くのが楽しい」という人は、脳のストレスを減らしアイデアを量産することが快感なのではないかと考えられる。

 

ここまで真面目な考察をブチ上げさせてもらったが、本番はここからだ。

突然だが、これより先は「文章を書くこと」をまるでオシャレなことであるかのように自慢するバカどもをぶっ叩くことにする。

「文章を書くのが好きぃ〜?」何をかっこつけとんじゃ貴様は。

文章を書くことを高尚なものであるかのように捉えてる連中が気持ち悪い

作文好きを自称する気持ち悪さを考えると、「念仏」も似たようなもんなのだ。

なぜなら念仏なんてものはだれにでも唱えることのできる代物のくせに、高尚であるかのような顔をしてるからである。

 

寺の坊主というのは、世間ではとても立派な存在とされている。

人格者で、しゃべる内容も徳が高い。

そいつらの唱えてくる「念仏」は、なんと高尚なものだろう。

全然そんなことねえから。

 

実際に私の祖父は寺の坊主に数百万円を騙し取られたことがある。

さらに最近だと、坊主はこんな事件を起こしている。

こいつら、確実に地獄行きだろ。

こんな邪念にまみれた連中のことだから、念仏の意味だって理解してないはずだ。

どうせ意味もわからず、ただ書いてあることを読み上げているだけ。

念仏なんてそんなもんなんだ。

 

文章だって同じである。

学生時代は「読書感想文」とか「小論文」とかを難しく感じる人が多かった。

だから「難しいもの=高尚なもの」と錯覚する。

で、かっこつけたがりのスカした連中は、これを見逃さない。

「ボクは文章を書くのが好きです(文章という高尚なものを嗜んでいる俺のことを見てくれえええええ)

このように心の声が漏れ出しているのである。

 

でも勘ちがいしてねーか?

文章なんて、だれにでも書けるものなんだが?

さっきは念仏を例に出して、「だれにでも唱えられるからありがたみなどない」という説明をした。

世の中には、だれにでもできることでマウントを取る族が大勢いる。

  • 「私は活字中毒だから本がないと生きていけないの」などという抜かす自称読書家
    (文字なんか、だれにでも読めるんだが?)
  • 「空気がおいしーい! 森の空気を吸うと生き返るわ」などと抜かす自称都会の生活に疲れた女
    (空気なんか、だれにでも吸えるんだが?)

 

なぜこいつらは、誰にでもできることを、さぞ特別なことのように語るのか。

で、調べてみるとナルシシストの特徴が奴らとそっくりだった。

だから生きていくために普通の人よりも「人と比べての優越」を必要とする。

そしてナルシシストは、人からの賞賛でしか自分の価値を感じることはできない。
人からの賞賛でしか自我を体験できない。
心の底で自信のないナルシシストには、他人の賞賛にしか心のよりどころがない。

つまり奴らはどうにかして他人より優位な立場がほしいと思っている。

そこで、だれにでもできるようなことを、さぞすごいことのように誇張して賞賛を稼いでいるのだ。

白状すると、私もかっこつけた文章を書こうとしてました

私はつい最近まで、文章がうまくなりたいと思っていた。

「ブログ始めたから、どうせなら綺麗な文章を書きたい!」

そのために「文章上達法」みたいな本も読んだりした。

でもここまで読んでくれた人ならわかるだろう。

文章みたいなだれにでも書けるものでマウント取るのって、超ダサい。

「ゲッ、俺もあいつらと同じ部類の人間かよ!」と思ったら文章に対する向上心が消え失せた。

 

かっこつけるのがいちばんかっこ悪い。

そう気づかせてくれたナルシシストたち、ありがとよ!

 

しかもさ、よく考えたら「文章上達法の本」ってコンプレックス商法だよね。

「文章がヘタなのは恥ずかしいこと」みたいな風潮にして不安を煽り、本を売る。

文章の世界ってゴミ野郎しかいないって気づいたよ。

文章を書くのが好きで好きで仕方がないって人に嫉妬する

後半は「エセ作文好き」を叩く内容になったけど、私は作文好きな人がうらやましい。

それは彼らが純粋だからである。

「文章を書くのが好き」という人は、本当に文章が好きで書いている。

それでお金を稼ぎたいとか、名声がほしいとか、そういうのを考えずに純粋に楽しんでいる。

私はこれに嫉妬するのだ。

 

私はものごとを純粋に楽しめないことに猛烈なコンプレックスがある。

趣味を始めようとしても「これやったらモテるかな」とか「お金になりそうだな」ということを考えてしまう。

「楽しいからやる」ではなく損得を考えてしまう自分が大嫌いなのだ。

だから純粋に作文を楽しんでいる人がうらやましいです。